昭和47年02月10日 月次祭



 を頂くということは、神様を私の心の中に頂くということ、と私は思います。ですからその神様が、どうゆう働きをして下さるか、どうゆう方なのかということをお話しを頂いて分らせてもらいます。それを自分の体、自分の心で、なるほど神様じゃなと、いよいよ神様を頂く。いわゆる神様の働きを実感する。そうゆう神様の働きを実感する生活を信心生活だと私は思います。ですからその神様を頂く、その神様を分るというか、頂くというか、ためにお互い修行をさせて頂くということになるのです。
 甘木の初代が、「大体神様ちゃござるとですか、ござらんとですか」といったようなことを質問した方に仰った。あんたがそんなに疑うなら一編お取次ぎを頂いて、お願い、何かお願いをしてみれと仰ったそうですね。例えばこの家の中に人がいるかいないかということを確かめるためには、まず門を叩かなければいけない。いわゆる教えをこわなければいけない。門を叩くという、中からどうでというて、人が現れてくる。
 なるほどここには人がござったっちゆうことが分るように、信心もやっぱり門を叩かなければ、神様がござるかござらんかということは分らんとおっしゃったそうですが、その通りであります。ね、しかもその神様がいよいよ私共と切っても切ることのでけない一つの縁というものが感じられる。なるほど親神様じゃなと、なるほど親じゃなと実感させて頂けれる、信心を頂かなければ信心の有り難さとうものはない。
 時々お願いをしておかげを頂いた。またはお願いをしたけれどもおかげを頂かなかったと、いう様な事ですいうなら神様を半信半疑に頂いておったんでは、やはり心の状態の上に頂く所のおかげも、やはりいうならば半信半疑ですから、いつも心配が絶えない。不安の生活である。神様を信じる生活こそ、安心の生活ができる。又は喜びの生活ができる。信心を頂くと言う事、信心を分ると言う事、それが合まっていかなければいけません。分っただけではいけん。そこで様々な修行をさせて頂くのですね。
 私今、こちらへお祭りが終わってから、今日は何を皆さんにお話しをさせて頂こうかと思うてやってきよったら、そこの内田さんとこの孫の、中島康郎くんと、力君が二人で何か御用をしながら廊下のところで、揃うてからお辞儀をする。今が4年生と2年生でしょうか。子供ながらも熱心に、それこそお腹の中からの信心ですから、もう実に熱心です。もう日曜なんかのときには、教会におることの方が多いいぐらいに、教会のもん、こっちのもんか分らんぐらいに、まぁここにひたって。
 いうなら信心を浴びるようにして、子供ときから頂いておるという感じであります先日から、兄さんの康郎君が扁桃腺を患った。熱があって、それこそ湯水も通らないようになっておる。そこでお母さんが心配をいたしまして、お医者さんに来てもらった。ところが康郎君がですね、お神酒も頂きゃ、御新米も頂いて、神様のおかげで僕は、今度はようならしてもらおうと思いよるのに、医者にかけたというて泣き出して、もう布団かぶってお母さんにもの言わん。4年生の子供。ね。
 もう本当におうた子に教えられるということは、こうゆうことでしょうかというてお母さんが、そのお礼に出て参りました。先生、私はもうとんだ失敗をいたしました、ち言う。もうあんまり苦しそうにしとりますもんですから、ね、私は本当に心配になってから医者を呼んでみてもらったところが、あなたもうその泣いてですね、もうせっかく神様のおかげでおかげを頂こうと僕は思っとったのに医者にかけたというてその、布団ひっかぶって私には泣いてからものも言いません。
 というてお母さん自身も涙を流してお詫びをさせて頂いた。本当におうた子に教えられるね、というたことでした。ね、例えば神様を分るとか、頂くとか言うけれどもです、やはりね、本当にそうゆう私は、生き方がね、必要なんです。ね、それは注射一本打ってもらえば楽になる。それは頭が痛いからノーシンといや、すぐスッとする。昨日でしたか、そこの田中さんが、もう私はどうかあるときには、すぐ野口さんから胃薬もらいに行きますっちいわっしゃるですけん。
 ははそげなんこつ野口さんな、そのノーシンやらやりござるじゃろうかちゅたところが、あそこに行くとノーシンに匹敵するように頭がスッとするような話を頂けるということだったらしんです。ね、ですからね、その信心の頂いておる人のお話しといったようなものは、そのくらいに効力があるわけなんです。ですから頭が痛いからノーシンなんて言わんで、教えのノーシンを頂くという姿勢をとらなければいつまでたっても神様は分りません。分って自分の心に頂くことができんです。
 まだ小学校4年生の子供がです、もうそれこそ苦しい息の下からです、もうそれこそ湯水も通らんごと腫れとるのです。しかしもう熱がある。お母さんはただ親の心ばっかりで医者に見せた。そして僕はもうおかげ頂いとると、医者に見せんでよかっちゅうてその泣いた。そりゃも母さんなんかものも言わん、ちゅうわけでもう布団ひっかぶって今泣きよりますち。本当に私が悪かったというてお詫びにお母さんが出てきました。
 本当にそこにです、神様をなるほど。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事が、私はもう骨の髄から分らして頂く信心こそ、私は本当の信心者としての値打ちだと。ね、決して医者にかかってはならんとか、薬を飲んではならんとか、薬の本当のゆうならば本質とでも言おうか、ね、お医者さんに手を取ってもらう、注射を打ってもらうということもです、本当に神様のおかげなればこそという、そのところが分ってからの医者であり、薬でなかなければいけません。
 お願いしとるばってん。やっぱ薬の方が効くごたる気がするところに神様を半信半疑にしてしてまう。こげなんこつまでは神様にお願いできまいということになるのです。決してそうではない。寒修行も無事に盛会のうちに終わらせて頂いた。なんとはなしに、修行が済んだからやれやれという気を抜いたのでしょうか、とにかく目だって風邪を引く人が多くなった。人間な不思議なもんですね。寒修行来てからもう一生懸命やってから、風邪引いとってもそれを例えば引きながら頂き貫くようなものが。
 ある時にはもう風邪でん何でん横押しやってしまう感じですけども、やれやれという所からやはり油断ができる。そこから風邪引きが目立って多い。私が思うのに信心させてもらえばそんなにね、そのいつも心ははりんのようにしておかなければならん。油断をしてはならんといったようなことじゃないのです。油断と言うことはやっぱないですけども、ならなんですか。寒修行すんだからです、ならゆっくり寝てはならんと言ったようなことじゃないのです。
 それやったら信心は難しい。信心はもうあらゆるところ、あらゆる中に神様を身近に頂かせて頂くというのでございますから、ただ特別の修行でもさせて頂くときにはです、ね、その康郎君じゃないですけども、病気をしたときに今度は御神米とお神酒さんでおかげを頂くという信念を持ってです、神様におすがりをしていくところから、お薬を頂くよりも、お医者さんに見てもらうよりも有り難いおかげを体験できれるという、そうゆうときにはね、また別です。
 今日は私夕食を一人でさせて頂いた。どうもそのなんちゅいうですかね、まぁ洋食ごたる風な感じなものが総菜に出てきました。どうもこの頃大食家の私ですけども、ご飯があまり頂きたくない。もうえらいこう何か変わったものが食べたい。そんな感じです。それ今日も色々こう食卓にお御馳走がでましたけど、今日は一つおビールを頂いてもらおう。一人でおビールを半分ばかり頂いた。私は大体一人でね自分一人で食事をするとき、自分一人でお神酒を頂くといったようなことは、これは慎ませて頂いとる。
 そりゃ飲もうと思えば皆さんご存知の通り沢山ありますからね、飲めるですけどもそれでも私は妙賀につきると思うから、ね、ただお客さんがあったり、なんかの時だけは一緒にお相伴をいたします。一人でお食事のときに一人でお神酒を頂こうとは思いませんけれども、ビールだけは違うです。えらい理屈をつけるっちゆうごたるけども、私は神様から頂いたからもうビールは酒の内に入れとらんわけです。
 私はご存知の通り、サイダーをたくさんもう日にそれこそ、半ダースも1ダースぐらい飲みよった時代がございました。もうあの三ツ矢サイダーをね、(ぜんと?)の三ツ矢サイダーばかり。ところが去年もう一年半ぐらいなりましょうか、神様からサイダーは辞めること、飲むこと辞めろとお知らせ頂いた。私はもうそれっきりサイダーのサの字を申しません。ね、そしたら神様からその代わりにビールを飲めと頂いた。ビールまぁ5,6本までぐらいなら良かろう、とそのとき頂いた。
 それからというて、そのサイダー変わりにずーっとビールを飲むわけにはいかんから頂きませんけれども、そんなわけで今日は私はちょうどビールに良いようなお魚がありましたから、おビールを頂いた。やっぱしあれアルコールが入っておりますから酔います。ね、そして、(?)にそれはその有り難いですよね。たったビール半分でその酔うんですから。いい気分にならせて頂いて、ならまだ月次祭まで2時間ばっかりあるから、まぁ1時間半ぐらいちょっと休ませて頂こう。
 で神様にただいまから休ませて頂きますと、これ本当に久富先生が来てもらうならまだよかばってん、まだ神遷の方におるからできんから、まぁ今日は辛抱して休まじゃこてと思うてから、神様にお礼お届けをさせて頂きよりましたらね、楽室で、じゃないあの茶の間で。したら丁度あの楽員さん方が、楽室にいっぱい並びましょ。今日はいっぱい並んでましたね。ようにですね、私が御祈念をさせてもらったら、楽人さん方がずらぁとやっぱり10人ばっかり並んだところを頂いたです。
 私はもう本当に有り難いと思うたですね。私がいつも申しますでしょ。ね、神われと共にあり、神様は私と共にいつも会って下さってあるんだという実感を持っての生活が信心生活なんです。いかに神を我共にあり、というてもです、ね、神様はどこに、遠いところにござる。いわゆる有り難いというものも感じれんとするならば、頭の上では分っておる、神我と共にありでも同行二人でも。
 それは頭で思うておる、感じておるだけなのである。なるほど神様が側につききっておって下さるんだな、と実感する生活が、同行二人の生活であり、神我と共にありという生活なんです。ね。私は夕食を頂かせてもろうて、おビールも頂いてしかも、今日は後は月次祭というのに、おビールを頂いて、少しポッとしたから、なら今から1時間半ばかりちょっと横にならせて頂きますと、神様にお届けさせて頂いたら楽人さんがズラズラッと並ばれた、ははいつも私が言う、天地のリズムということを言うがです。
 そうゆう私働きがいつもあっておらなければならん。ね、あの琴の調べ、笙、篳篥の調べに乗ってお祭りが仕えられるように、ね、歌を歌うでもやはり上の伴奏であり、ね、その相方というものの伴奏があって初めて歌な歌が、調子に乗っての歌が歌えますように、私共はいつもです、天地が奏でて下さるところのそのリズムに乗っての、生活じゃなかなければならない。
 そのリズムに乗っての生活ということは、私でいうならば、朝の御祈念のひと時もあるかと思うと、御結界でのひと時もある。あちらで下がってお茶を頂いておるときもありゃ、一人でビールを飲んでおるときもある。さぁ今からいっちょ寝ろうかというときもある。だからね、信心とはね、こうしてはならん、ああしてはならんじゃないことが分るでしょ。例えば私が寝ろかと思えば、もう神様が子守ごとを奏でて下さるようにです、私が寝とる間に調子に乗って、目を覚まして頂いたら。
 ちょうど後30分というところですから、それから身じまいさせて頂いて、装束を付けさせてここに出てきたのが、15分前である。ね、誰も起こさん。そうゆうリズムの中に眠っとるのであり、起きておるのでありああしておる、こうしておるおるんだという神様ちは有り難いなぁ、もったいないなぁということ。お夢を頂いておったがお夢を何か分らんじゃったけれども、とにかく有り難いというものを頂きよった。
 お夢の中にも一つのリズム中に、スヤスヤと子守歌を聞いて子供がね安らかな眠りに入って行く様におかげを頂く。ああこれ久富先生が来てもらうとなおよかばってん、ち言いよったら休もうと思ったら見えた。あれもうしまえたっですかち言ったら、まだお風呂も入って、ご飯もならお風呂前とにかくなら暫くおかげ頂きますとこう。ですからいつ足をもみ終わってもらったか分らない内に眠りに入ってしまっておる。
 そうゆう生活が信心生活なんですよ。だからこの、もう寒修行が終わったからね、例えば寝ちゃならんとか、こうちゅうことじゃないと。ね、ゆうならば油断ということは神様をはずさないということ。どういう中にあっても、さぁやれやれ今日は寒修行が終わったから今日はなら一服させてもろうか、その一服させてもらう中にも、どうぞ神様一服させて頂きますというと、その一服させて頂きますとに、ちょうど都合の良いように神様がよいリズムを奏でて下さるというわけなんです。
 素晴らしいでしょうが。私今日は、本当にですね、あのいつも天地の動きというか、天地のリズムに乗った生き方っていうことをいつも聞いてもらいますけども、はー願わしてもらうところからです、ね、もう神様がこちらに歩調を合わせようとなさる。張り切った気持ちでおれば、神様も張り切ってくださる。やれやれという気になれば神様もやれやれとゆう気になって下さる。
 そしてそこに間違えのないような働きというものがです、そのリズムに乗って、ね、何ともかんとも言えん有り難いことの中に、一日が過ごさせて頂けるという生活こそ同行二人の生活だ。神我と共にある、なるほど印だなということを実感するのでございます。だからこげなんこつじゃから神様に願わんでよい、ちゅうこつはもう絶対ない。ね、けれどもその願う心がです、只今から休ませて頂きますということも、ね、只今からおビールを飲ませて頂くということも。
 願いさえすれば良いというのではないんですよ、皆さん。ね、信じて願わなければならないということなんです。ですから許されておビールを頂いておるのであり、許されて眠らせて頂くのであり、だから許されて眠らせて頂いとる印に久富先生がもう来てござる。もう本当にもう向こうの方に聞こえたごたる感じです。まだ家内に私は、あの床とってくれて私が休む準備に来てくれて、だから久富先生これおんなはるなら、あっち言いよったけど、ね、言う口のうちに久富先生が来て。
 所謂足をもんじゃっとるとですよ。ね、もう神様のいうならばリズムを奏でて下さる姿なのです。ね、ですから皆さんどうしてもね、神様を信ずる力、これを養わせて頂かないけんのです。ただ参っております、拝んでおります、あんときにはああゆう奇跡的なおかげを頂いたけれども、ああゆう奇跡的なおかげを頂いても、その次に自分の思いにならんと、神様もいい加減なものだというようなことになってくるのです。えてして。ね、本当に神様を信じて、願われるということ。ね。
 そうゆう私は生活に入らせて頂くことを願いとして信心が進められなければいけないと思う。ね、それにはね、私が神様をこれこそ信ず、信じさせて頂けれる、こよないチャンスだと、いうものをです、例えば康郎君の場合感じますですね。子供ながら、ね、扁桃腺を患うた、ただ苦しくある、湯水も通らんごとある。それでも、御神水とお神酒さんと御神米だけを頂かせてもろうておかげを頂こうと心に決めた。それを何日も続くから、母親が心配をして医者にかけた。
 せっかく僕がね、神様のおかげでようなろうと思いよるとに、というて布団をひっかぶって泣いたという。本当におうた子に教えられる、母親の私がつまりませんでした、というてお詫びにでて見えた。ね、私はね、そうゆう一つの稽古の、もうどうかあるっちゃすぐ、安易な方へ、安易な方へと取ろうとする。私、信心の世界というものはね、私共のね、考えやら知恵で憶測がでけたり、分るほどしの神様ならたいしたことないと思いますよね。そうでしょうが。
 もうあげんせればこげんなる、ちゃん分ったそげなん人もあります。けれどもそうゆう程度の人は、もうそこまでですおかげが。とてもとても神様のね、私共のまぁだまぁだこれから分らなければならんことが、どれだけあるか、まだそれこそ雲をつかむようです。私自身が。ただ今日まで分らせて頂いたところでが、今今日お話しておるところの、おビール飲む、横にならせて頂こうが、お願いをして休ませて頂くところから、神様はもうそこに楽人を揃えるようになさる。
 私が寝るといや子守歌うとうて下さる。眠っておる中にも有り難い何か知らんけれども、お夢を頂いておるということ。ああここにいっちょ久富先生がなと思えちゃんと(  ?)が来て下さると。ね、だからはあ信心して足揉んじもらったりどうしたり、信心しよってから、そげんビール一人で飲んだりしたり、そげなんことじゃないんです。そこんところを私は、ね、私のなら朝から例えば晩までこと申し、朝のね、3時半から私が休ませて頂く間の中には、様々な私の一日というものがです。
 決してその朝の4時の御祈念とき出て来るような気持ちばっかりじゃ決してないけれどもです、そこにいつも神我と共にありでありいつも同行二人だな、とゆうそれを実感させて頂いての、一日一日であるということなんです。ね、そこでなら皆さんもです、それを願う稽古をなさなければならん、願うからには信じて願いよる神様を頂くことのためにです、そこに例えば修行があるのであります。ね、そしてこれこそ良いチャンスだというものを逃がさずにです、ね、おかげを頂いていかなければならん。
 今朝からの御理解の中にもございましたですね。昨日ある方が、もうそれこそ心外で心外で堪らん様な事を人に言われた。ね、それでこれだけは親先生に聞いといてもらわんならんと言うて見えましたから、私はその事を神様にお届けさせて頂いたら、認めるという字を頂いた。ごんべんに忍ぶと書いてある。認める。ね、それはです例えばそれこそ赤面弁慶になってでもです、そのことは私がいつそうゆうことをしたか、というてです、言い訳でもしたいのだけれども、その言うことを忍べというのである。
 あんた泥棒じゃな、乞食じゃなと言われてもです、俺がいつ泥棒したか、いつ乞食をしたかと言わずにです、ね、自分で自分の心の中に、それこそ日頃の教えの鏡を立ててみよ、顕微鏡で眺めるように自分の心を眺めてみよ、必ず泥棒の虫乞食根性の虫がちゃんとあるのだと。あの人はあの人ではなかった。神様があの人を通して、私にこのことを教えて下さったんだという頂き方にならせて頂けるのだ。ね、相手の言うことを認めなければならない。俺がいつ、とこうかかっちゃならん。
 しかも言うてはならん、言うことを忍べと言う事。そうゆう生き方に、神様が認めて下さるおかげになるという御理解でした。ね、そげなんときやっぱ言いたいです。いわゆる黙って治めると。さんずい辺に無口と言う事。是はもう大変に素晴らしい。今日のご理解はね、88節から頂きましたが、ここんところを分らせて頂いたら、只おかげを頂きますではなくて、おかげにおかげの花が咲く。穂に穂がまた咲いてと言う様なおかげになる。いうならば御徳を受けてのおかげだという意味の御理解でした。
 ただおかげを頂くというだけなら時々参ってお願いをするでもいいけれど、ね、信心生活、わざわざせんでもいいけれど、ね、そうゆうチャンスを与えられたんだ。そこでです、忍ばにやいかん、言う事を忍べと。言いたかろうけど忍べ。そして自分で自分の心の中を深く反省してみろ、顕微鏡で眺めて見ろ、とこういう事。したらあったはあったは、あの人の言いなさる以上のものがあった事に気がつかせて頂いて、あれはあの人じゃなかった、あれこそ神様の声であってと分るのである。
 そうゆう例えば、ね、言うことを忍ばせて貰う。言う事をこらえさせて貰う。そして自分を反省させてもらう、そうゆう生き方もそうゆう姿にです、神様がその氏子を認めて下さるところのおかげ。もう金光大神の氏子としての、いうならば認められることになるのです。そうゆう繰り返しがね、88節であっていうならば、ね、広がった上にも広がっていこうという、穂に穂が咲くおかげを頂くためには。
 そこんところのおかげを頂かんならん。成程黙って治めるということの素晴らしいさを、いわば穂に穂が咲くようなおかげを頂いて初めて体得させて貰うのです。ね、そうゆうチャンスていうものいつもあるもんじゃないのですよ。ですからそうゆうチャンスを逃がさずに、ね、それを私は日頃の教えを頂いて、日頃そこに現していくという、おかげを頂かせてもらわなならん。ね、それが有り難い。ね、例えなんならね、なら風邪を引いた。さぁとんぷくだ、風邪薬だと言わずに、ね。
 自分の心の油断から風邪を引いたのであるから、ね、そこん所をお詫びさせて頂いて、神様のおかげで直らせて頂く。そのおかげというものは、また格別のおかげである。それを体験しようと、一生懸命苦しいのを辛抱しとるところに、お母さんが医者にかけたから、本当に涙がでるほどに腹が立った。子供ながら。だからそうゆう修行をです、私共がしちゃならんけども。そうゆう絶好のチャンスを頂いておる事を。
 全部外しているんです。どうかあるちいやすぐノーシン、どうかありちゅや、すぐお医者さん。人から泥棒ち言われりゃどうしたか、とこう言う。これではね、いわゆるおかげを頂きたいだろうけれども、おかげを頂き、おかげにおかげの花が咲くようなおかげにはなってこんのです。今日は、私が言うところの、いうなら本当の意味においての信心生活。我神と共にあるという。
 私はいつも同行二人であると言う様な、成程神様と共にあるんだな、いつも神様が奏でて下さるリズムの中に私が日常生活させて頂いておる実感が、有り難いのであり、もったいないのである。そうゆう生活が出来る事のためにです、そうゆうおかげの頂けれる、チャンスをまだ疎かにしてはならん夢疎かにしてはならんと言う事をです、肝に命じておかなければなりません。信心の稽古ていうそこん所が、大事にせななければならんと思うのでございます。
   どうぞ。